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仙台は、人気スポーツイベントの開催や世界的に活躍する地元出身アスリートなど、“スポーツ”に関する話題が豊富な街。週末になると、プロスポーツチームの試合も頻繁に行なわれています。現在のこのような盛り上がりは、仙台のスポーツを長年、陰で支えてきた元仙台市職員・武田均さんの活躍なくしては成し得なかったとも言われています。
2020年に30回目を迎える「仙台国際ハーフマラソン大会」や世界中の話題を集めた仙台出身のフィギュアスケーター・羽生結弦選手の祝賀パレードなど、仙台市が担当したスポーツ関連イベントや武田さんが仕事をする上でいつも心掛けていることについてお話を伺いました。
かつて鉱山の街として集落があった宮城県・奥新川で生まれた武田均さん。山に囲まれた自然豊かな土地で、野球やスキーなどスポーツに親しみながら、伸び伸びと少年時代を過ごしました。中学から大学までは、仙台の「学校法人 東北学院」に通学。卒業後は公務員になる夢を叶え、旧宮城町役場へ入庁します。
1987年に仙台市との合併に伴い、仙台市職員に。1995年には、教育庁スポーツ課に配属されます。その後、市民局次長兼文化スポーツ部長時代に、全国で話題を集めたイベント「荒木飛呂彦原画展 ジョジョ展 in S市杜王町」の運営代表を務め、スポーツだけにとどまらず文化事業にも携わっています。
2014年には、「公益財団法人仙台市スポーツ振興事業団」の常務理事に就任。現在は同事業団の相談役として、スポーツ大会の企画・運営、スポーツ誘致活動の講演会などを行なっています。
武田さんが所属している「公益財団法人仙台市スポーツ振興事業団」では、“仙台市民が、心身の健全な発達と明るく豊かで潤いのある生活の実現を支援すること”を目的のひとつとし、さまざまなスポーツ大会を開催しています。なかでも「仙台国際ハーフマラソン大会」は、参加人数が1万3千人を超える日本でトップクラスのハーフマラソン大会。武田さんは1996年の第6回から、企画・運営、ゲストランナーの招集などを担当しています。
「仙台国際ハーフマラソン大会」は、国内実業団所属のランナーから完走を目指して走る市民ランナーまで参加できますが、元は陸上競技連盟の公式大会で一定以上の記録を持つトップランナーが集う大会。1991年に開催された第1回の参加者は、わずか151名でした。その後300、500人と回を重ねるごとに増加しましたが、実行委員会はさらなる大会のレベルアップを考えます。
「国際的な大会にするには、もっと個性をもたせなくてはだめだと、スタッフと話し合いました。コンセプトのひとつが“若手ランナーの登竜門”なので、初心に立ち返り学生有望選手の招集を強化することに。はじめにアプローチしたのは、箱根駅伝でも素晴らしい成績を収めている名門・駒澤大学。当時はコーチだった、現監督の大八木さんに我々の想いを伝えたところ快諾してくださり、選手を派遣してくれることになりました。有名な選手が参加すると、そのライバルたちも参加するようになり…と次第に若手エリート選手が増加。大会記録も縮まり、日本トップレベルのハーフマラソン大会に成長しました」
「仙台国際ハーフマラソン大会」は東日本大震災の発生により、2011年5月開催の第21回をやむを得ず中止に。
「震災直後から生活が不安ななかにあっても、市民ランナーたちの“走りたい!”という気持ちが高まっているのを感じました。どうにかしてその想いに応えたいとみんなで考え、生まれたのが「仙台リレーマラソン」。たすきに想いを込めて、42.195kmを絆でつなごうというコンセプトで、2011年11月に開催しました。「仙台リレーマラソン」を経て、翌2012年第22回の「仙台国際ハーフマラソン大会」では、市民ランナーが参加できる大会にリニューアル。1万人を超えるランナーが、新緑に包まれた仙台のシンボルロード・定禅寺通を駆け抜けることができました」
震災後、飛躍を遂げた「仙台国際ハーフマラソン大会」は、世界レベルの都市型ハーフマラソン大会として現在も成長し続けています。
スポーツイベントのみならず、仙台ゆかりのスポーツ選手に関する企画の指揮も務める武田さん。後編では、話題を集めたフィギュアスケーター・羽生結弦選手のパレードや被災地支援の活動について伺います。
武田均(たけだひとし)さん
1953年宮城県仙台市生まれ。東北学院大学法学部卒業後、1976年に旧宮城町役場に入庁。仙台市と宮城町の合併に伴い、1987年仙台市職員に。教育局スポーツ課長、仙台市東京事務所長、市民局次長兼文化スポーツ部長を経て、2014年公益財団法人仙台市スポーツ振興事業団の常務理事へ。現在、同事業団の相談役として仙台市のスポーツ振興を支えている。